私たちは、それをいただきました。 公の救護所や病院では、じつに収容患者のうち三分の一ないし半数の者が死亡していた。 谷の下の農家から使いが来て、そこの家屋敷は負傷者と死人でいっぱいになったから、重症者だけでもそちらで引き受けてもらえないだろうかと言ってきた。
8検疫所の中は見る間に人で一杯になりました。
一時も早く治療をと思いながら、それの出来なかったもどかしい思いは、今でも胸が痛みます。
このショックでシッファー神父はなかば失神して嘔吐した。 灼熱の日ざしの下に横たわる負傷者たちを運命の手にゆだねて進んだ。
6その年の夏休み長崎に原子爆弾が投下されました。
周囲にはたくさんの負傷者が横たわり、「水、水」とうめき声を上げていました。
高熱のため体内の水分が奪われ、水欲しさに川に入り、水を飲んでからこと切れた人たちであろう。 母は小さな弟妹4人を連れて田舎の実家へ疎開していたのです。 2017年6月15日閲覧。
9私のまぶたの裏に焼きついているのは、太さ三センチ、長さ二十センチ程の杭のようなものが、顔の真ん中、目のあたりにつき立ったままの、まっ黒になった女の人が、トラックから降りてきて、私の前を通って、学校の方へよろよろと歩いて行った姿だ。
瀬戸内海も鉄器の爆雷投下のため、航行不能となり、陸路、広島、大阪へ患者輸送をした。
三篠橋まできたが、あの一家はもうそこには居なかった。 戦争の経験のない人間の無神経さにあきれたことだった。
再び核兵器が使われれば取り返しがつかない事態になる、と誰もが認識しながら、今も世界には1万7千発の核弾頭がある。
この戦争は私が6年生になってもまだ続いていました。
聞けば父の消息もまだわからないという。 その朝は真夏の暑い太陽がギラギラ照りつけ雲一つない晴れ上がった良い天気でした。 たちまち広島の街は燃え上がり、天高く立ち昇るキノコ雲、その下で起きる大火災。
10私は恐怖のため、身動きさえできず、突っ立ったまま足が動きませんでした。
その二週間後の九月九日、父が死んだ。
— 広島市、広島原爆戦災誌 第2巻 人影の石に関しても、「『人影の石』の前にいた人は一瞬で蒸発して消えてしまった」といった形で、同様の言及がなされることがあるという。
その前を通ろうとすると、 「もしもし、そこを通る人、すみませんが水をくださいませんか」 という声がする。