22時42分、南消防署本署 および南消防署各出張所より第一陣が出場した。 このように同ビルの空調設備の設置状況は、建物の規模が大きく古いこと、また改築や用途変更などの影響で非常に複雑なものになっていた。 1963年に改称)で 、個人店舗が数多く出店してを形成し、そのほかに劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊技場、キャバレーなどがテナントとして入居していた。
6進捗状況の関係から閉店後の夜間も工事を行う手筈となっていて、翌朝4時までを予定していた。
B階段の出入口はバルコニーが併設され、プレイタウン営業中は常時解錠されていて、従業員は使用することができた。
21日夜まで燃えつづけ、焼失区域は天満・船場・上町のほぼ全域、総町数115町にのぼった。 消防隊員の手により救助袋は地上へ降ろされ(22時47分) 、救助袋先端の把持を通行人らに頼んで7階からの脱出準備が整ったかのように見えたが(22時49分) 、救助袋の正しい使用方法「上枠を180度上方へ引き起こし、袋の入口を開いて、袋の中に入って滑り降りる」ということを7階で知っている者が誰もいなかった。 千日デパートビルの空調設備は、地下1階と7階に中央方式(単一ダクト調和方式)による(以降「空調機」と記す)が各1台ずつ設置され、計2台で全館(塔屋および一部階の特定エリアを除く)の給気と排気が行われていた。
また千日デパートと7階プレイタウンの間で非常時の避難計画を話し合う連絡協議会の設置を行ったことはなく 、共同で避難訓練を実施したこともなかった。
・『摂陽見聞筆拍子』巻七 浜松歌国著 写本 378-40 「道頓堀火災の事」 別名を『摂陽続落穂集』『摂陽落穂集後編』とも。
西方面隊より「デパートビル3,000平方メートルが延焼中」と報告が入る。 火災発生当時の千日デパートビル滞在者 男性 女性 計 滞在者の内訳 屋上 0 0 0 滞在者なし 7階 94 87 181 プレイタウン関係者181人 =客57人(男性56人、女性1人)、ホステス78人、従業員35人(男性29人、女性6人)、バンドマン10人(男性9人、女性1人)、ダンサー1人(女性1人) 6階 6 0 6 ボウリング場建設作業員 5階 0 0 0 滞在者なし 4階 2 0 2 ニチイ千日前店店長1人、同従業員1人 3階 7 0 7 電気工事監督1人、同作業員4人 、ニチイ千日前店従業員2人 2階 0 0 0 滞在者なし 1階 5 9 14 デパート保安係員4人(男性4人) 、プレイタウン・ボーイ1人 、プレイタウン・ホステス9人 地下1階 2 0 2 デパート電気係1人、デパート気罐係1人 合計 116 96 212 7階プレイタウン滞在者および生存状況 [ ] 火災発生時の7階プレイタウンの滞在者内訳と死亡者、生存者、負傷者の人数は以下の表のとおりである。
7階プレイタウンを襲った黒煙 [ ] 22時35分ごろ、7階で営業中の チャイナサロン「プレイタウン」では、23時の閉店に向けて「お決まり」の様々な動きが始まっていた。
火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されたことから 、火災発生翌日の14日夜、電気工事監督の男が現住建造物重過失失火などの容疑で大阪府警南署に逮捕された。
大阪府警南署特別捜査本部の証拠保全によって為されていた措置だが、現場検証と燃焼実験が終了したこと、テナントの要望があったことから立入禁止を解除した。 火災の経過 [ ] 閉店後に3階で電気工事実施 [ ] 1972年(昭和47年)5月13日、千日デパート3階・ニチイ千日前店の売場改装にともない、電気配線用の配管取り付けなどの電気設備工事が行われることになった。
11またF階段電動シャッターについても常時電源は切られており、開閉することはできなかった。
そのときに2人は、ビール大ジョッキ2本を飲んだ。
特異な死因「胸部腹部圧迫による窒息死」は、極限のパニック状況の中で発生したと推測できる。 3階および4階のニチイ千日前店では、独自の空調パッケージによる給気が行われており、3階の北側と南側に各1台ずつ、4階の南側に1台が設置されていた。 窓際に移動した人の中で最初に地上へ飛び降りた人が出たのはこのころであった。
122人の保安係員によって3階の売り場を北側と南側の二手に分かれて保安巡回した際には、同階で電気工事やニチイ社員による残業が行われている以外に特異な状況は見受けられず、異常も確認されなかった。
ビル北西部分のD階段周辺に地下1階から屋上を結ぶデパート専用エレベーター(従業員用)が1基設置されていた(以降 Cエレベーターと呼ぶ)。
宿直 [ ] 千日デパートでは、各テナントの夜間の宿直を認めていなかったところ、例外的にプレイタウンだけは独自に宿直員を置くことが認められていた。 救出窓で死亡者はいなかった。 23時、住吉消防署本署はしご車分隊が現場に到着し、ビル南側に部署し2階ないし4階の消火作業をおこなった。
3給水量は75万7,200リットルだった。
火災焼失の1972年(昭和47年)5月14日から全館休業状態になった。