不満を募らせた崇徳上皇は、を呪詛した疑いを掛けられて失脚したと手を組み、為義・忠正らのを集めてを起こす。 諱 いみな は顕仁 あきひと。 我こそは魔縁の中の魔縁、つまり、天狗の親分になって、天皇を引き摺り下ろしてやる!と、宣言したというのだから穏やかではない。
5第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。
(1140-1162)• その上で体仁親王を天皇に立てて院政を行うよう、崇徳にすすめました。
これにより崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かれた。
はやっと見付けたとを挙げ、思わず男に飛びついた。
第18代• お経が送り返されてからというもの,上皇は食事をあまりとらず,髪もとかず,爪は長く伸ばし放題にしていて,その様子は天狗のように恐ろしげだったと伝えられています。 その姿は夜叉(やしゃ)のようで、爪や髪は伸び放題だったのだとか。 の際には崇徳天皇陵に勅使を派遣し、式年祭を催した。
11近代における鎮魂 孝明天皇 出典:Wikipedia 時は幕末。
これに危機を覚えた崇徳院は、少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出しました。
国司によって葬儀が行われましたが、朝廷は何もせず、徹底的にその存在を無視したのです。 松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり (1354) (訳)松山の波の景色は変わらないだろうが、形なくわが君はなってしまったことよ。 なお、崇徳の異母弟であるの誕生は白河法皇の没後である)。
18そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。
蹴鞠の守護神精大明神も祀られており、スポーツ関係者も多く訪れます。
4 23 年したが,法皇,次いでがをとった。 『綾・松山史』の編纂記念として,現在この地に「松山津」の石碑が建立されています。 第50代 (781 - 806)• またでは、(の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
10さらにはが起こり、政治の実権はやのから武家に移った。
西行法師が崇徳上皇の陵墓に参拝した際に、崇徳上皇の亡霊が現れ、論争を繰り広げます。
第12代• 元年()に13歳で。 (待賢門院) - 女• 『』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。
15この「双六の賽」には近年になって新たな解釈がなされるようになった。
第6代• 江戸の人々にとって、崇徳院の怨霊はそれだけポピュラーなネタだったのでしょう。