信長はその後、悠々自適に 富士山見物をしながら、東海道を経由、 凱旋帰国となりました。 これは、武田勝頼の頼りなさを表す言葉であると共に、信玄派の家臣達が武田勝頼を認めていなかったことから、武田信玄自身が死ねば武田家は弱体化してしまうのではないかと懸念もしていたのです。 そのおかげで、この戦で武田の重鎮とも言われていた多くの家臣を失ってしまいました。
3以降、武田勝頼は三河・遠江での影響力を失っていきました。
さらに信玄は、可愛がっている勝頼を実質的な後継者とするのです。
4月10日、織田信長、甲府を出発し、富士山を見物して安土への帰路に立つ。 武田家の家臣団は崩壊し、組織的な抵抗は不可能になりました。 甲斐の地方を治めていた守護大名家の武田家が戦国武将になったのは何故でしょうか? 甲府から周辺に戦を仕掛けていき、その戦の猛々しさから周辺大名達に畏れられていた信玄。
1スポンサードリンク 武田軍の死者は10000を超え勢力低下 武田軍の死者は10000を超え、この戦いで有力な家臣たちが命を落としました。
松姫と信忠の悲恋 仁科盛信の実妹・松姫は織田信忠の許婚でした。
そしてこの「長篠の戦い」から7年後、味方の親戚にも寝返りされて追い詰められ、ついに自害。 また「勝頼が武田氏の通字である『信』の字ではなく、諏訪氏の『頼』の字を継承している」ことや「朝廷から官位を授かっていない(信長の妨害があったとされる)」なども一因しているとも考えられる。
また織田と協力関係にある北条も、信長の前では決して安泰ではないという揺さぶりをかけたのでしょう。
また、信玄存命中は守勢にしていたも、三河のを寝返らせるなど、攻勢を強めていった。
その間に織田信忠が方面から、がから、徳川家康がから、が関東及びから武田領に侵攻を開始()。 武田家と運命を共にした仁科盛信 武田領の各地では総崩れとなる中で最後まで武田家を守り散っていった武将がいます。 後半生:信玄の死後~長篠の戦い 3年(元4年)、かねてより西上のっ最中だったは、その途上で持病だったが悪化して病。
5つまり、北条夫人と武田信勝は実の親子ではありません。
この戦いで、や、守友や次、、信実、原胤といったの宿将や猛者達が次々と戦死し、またの達(、)や信胤など軍に付き従ってきた有人達も死んでしまう。
この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出した。 ただし、勝頼は以降もや北条、や名といった東の諸大名、追放されたと彼を保護すると誼を通じ、との和を模索するなどしており、決して為策ではなかった。
14家臣達はその命知らずな出陣ぶりを認めていますが、すぐさま討ち死にしてしまうのではないか?と、その気性を危惧されてもいました。
その布石か、信玄の長男である義信が謀反の疑いで寺に幽閉されてしまうのです。
以降、かつての仇敵であった上杉との外交関係を修復に努め、妹・を謙信の養子(後の後継)になっていたに嫁がせている。 この時の武田は、信長に貶められていた将軍足利義昭が、近隣諸国の大名に助けを求め、信長討伐を命じていました。 を、明けには消えていくやに例えている、物悲しい句である。
7しかし、何故か信玄は、この諏訪の娘を側室にしてしまうのです。
そこで勝頼は、両者の和睦調停に乗り出しました。
室町時代、武田家は甲斐の守護を勤めていました。
これによって、甲斐武田氏は滅亡した。
明けて翌 天正7年(1579)、豪雪の中で補給もなく孤軍奮闘を強いられた北条方の東上野衆(河田重親・北条高広ら)は不満を募らせ、2月には樺城・荒戸城などすべてを放棄して上野国に撤退してしまった。 よく「無能だ」「信玄より劣っている」といわれているが、それらは「ある戦国大名が武田勝頼を滅ぼすために流した噂である」ということが研究で明らかになった。 信玄の頃は本拠地を(つつじがさきやかた)としていたが、長篠の戦いで負けてから本拠地をに移した。
3こうして5月21日に織田・徳川連合との決戦が行なわれたが、武田軍は敵の馬坊柵に攻めあぐねて、さらに鉄砲衆を相手に劣勢となり、最終的には・・・甘利信康・原昌胤のほか、・昌輝兄弟など多くの重臣と兵卒を失う大敗となったのである。
父の残したツケ 晩年の信玄は何をしたかったのか、周辺国全方位にケンカを売っています。
勝頼は跡継ぎのが元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった(国宝。 家康は、三方ヶ原の戦いの恐怖もありますし、高天神城も落とされているので、織田に援軍を頼みます。 元亀4年(1573年)4月12日、父・信玄が西上作戦の途中で病死。
20しかし、これは致命的な選択ミスだったのかもしれません。
信玄は勝頼を、伊奈郡代・高遠城主に任じました。