八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、江戸時代に八条宮家の領地であった長岡天満宮に「開田御茶屋」として移築され、明治4年(1871)に桂宮家から細川家に下賜されるまで長岡天満宮境内にあった。 矢部誠一郎『利休随一の弟子 三斎細川忠興』宮帯出版社、2015年。 剣術はに学び、、からのを、()をから相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。
8この時藤孝・藤英兄弟、それにら義輝旧臣は、当時興福寺にて幽閉の身の上であった義輝の弟・覚慶(後の)を次期将軍にせんとすべく救出。
古今伝授は御所をはじめ様々な場所で行われたが、実際に伝授された部屋が残るのはここだけと言われる。
しかし、皆さんご存知の通り、彼は光秀を裏切るのです。 この田辺城の戦いは幽斎の負けという形に終わったものの、大局的に見れば田辺城を包囲していた1万余りもの西軍を、長期に亘って釘付けにしに間に合わせなかった、という功績を挙げる格好ともなった。 藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
8事ここに至り、藤孝は義昭の逆心を信長に伝えるなど、信長への恭順の意を示した。
臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。
兼見と幽斎の親密さは、親類ということだけではなく、学問を介した気脈通じる仲にあったことが随所に伺えます。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 天正9年()のにも若年ながら一色満信らとともに参加する。
10忠利は関ヶ原の戦いに前後して、江戸に人質に出ており、その際にやその家臣たちと親交を深めていたことも、嫡子として選ばれる際に有利に働いた。
生涯 室町幕府幕臣として の幕臣・三淵晴員の次男として生まれる。
『』(大河ドラマ/1988年)• 132• 評判のよい薬の調合の仕方というようなことであれぱ、秘伝にする価値がある。 系譜 [ ]• そして、やはり明誓もバッチリ戦果を挙げたよう。
6その後から完成した小倉城に藩庁を移し、初代藩主となる。
また、この事件に際して忠興は嫡男・を廃嫡している。
しかし、伊也の恨みのこもった鼻の傷が残って以降、大名の間では忠興の前で顔の傷のことを話題にするのはタブーとなったとされる。
長岡好重• 森島康雄「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」(『丹後郷土資料館調査だより』9号、2020年)• 幽斎が宮津城を焼き払った後、新しい支配者・京極氏によって再建された宮津城の大手門は、田辺城から移築されたものといわれています。
これに対して西軍は、丹後・但馬の小大名たちの連合軍1万5000の兵力で、田辺城を包囲する。
しかし、そんな幽斎への評価は意外にもそこまで高くない。 その功績が幽斎に認められ、感謝状とともに涅槃図と梵鐘が褒美として与えられました。 『戦国期歴代細川氏の研究』和泉書院、1994年。
20『』(大河ドラマ/2011年)• 細川藤孝 細川幽斎 は生涯、側室・妾を持たず、その後も沼田麝香との間に 、細川 、細川幸隆、於千、細川孝之、加賀子、小栗らが生まれているが、この婚儀は細川藤孝が28歳の時である為、沼田麝香は後妻 継室 と言う可能性もある。
1552年には、従五位下・兵部大輔に叙任され、1554年には、養父・細川元常の死去により、21歳で細川家の家督を相続した。
の後、藤孝やらは・の大名・を頼って義輝の弟・義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。 これは、 『古今集』の正しい本文と特定の語句を、特定の者を選んで伝えていき、他の者には秘密にし たことをいう。 『』(ドラマ/1987年)• さて、細川藤孝には様々な評価がある。
そして憎いことに、田辺城から古今伝授の資料と歌道の貴重な資料などをすべて八条宮と後陽成天皇宛に送っている。
は頭にをつかれると、取ることも逃れることもできない駒だが、一枚隔て筋違飛びの働きをする。
二人は禁裏や秀吉への祗候のため共に行動することもあり、丹後ー京ー伏見屋敷を往来し、老いてもなお戦地に赴く幽斎の行動が、この日記から逐一わかります。 この最初の転機で、細川藤孝は義昭を見限り、織田信長を主君とする。
11その他に、孫で忠興の子以降、子孫が54万石の藩主となったことから、熊本のの麓に建立された細川家菩提寺の(現・立田自然公園)にも廟所が造営された。
通常非公開。