角田房子の最大の関心は、1945年に入り、連合軍の日本全土に対する空襲が激化の一途を辿る中、「平凡な人間」と自覚していた阿南が陸軍大臣として、どういう考えを持っていたのかにある。 「原爆投下の8月6日から終戦までの10日間は、日本が亡国の瀬戸ぎわに追いつめられた、民族の歴史にかつてない危機であった。
鈴木内閣には無任所国務大臣の椅子が二つあった。
なんと身勝手で自己本位、無責任、映画を見終わった後そんな感情がわいてきました。
生徒を引率して陸軍のを見学に行ったときは、昭和天皇の計らいで生徒は天皇ののすぐ近くで見学することができた。 阿南, 友亮『中国革命と軍隊 : 近代広東における党・軍・社会の関係』慶應義塾大学出版会,、2012年8月。 もはや事ここに至っては阿南もポツダム宣言を受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長と軍令部総長豊田の3名で「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件を強く主張し、「国体の護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した。
6阿南も、常々「ビアク島は空母10隻に値する」と主張しており、自らビアク島の地形を確認して、地の利を活かした陣地構築の指示を行っている。
そして「叛乱軍将校は軍人として、許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。
阿南は兄惟一のせいで生活に困窮する両親のため、の全額を実家に仕送り続けた。 長沙には精強を誇る第9戦区軍司令部(司令長官:)があり、阿南はこの撃破を目論見、東部萬洋山系の側面陣地を撃破して長沙に進攻しようと計画していたが、作戦を認可した参謀本部は中央突破の作戦を命じた()。 これで徹底抗戦一本槍だった陸軍の内部に動揺が起こります。
4(ウツボ)だが、これも海相の裏切りにより、国体護持確信の望みを絶たれた。
こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており、2人の主張の隔たりは大きく、激しい議論となっていた。
阿南は8月13日に参内し、先日の「陸軍大臣布告」について昭和天皇に説明した。 真実ならん」「謹みて非凡なる奮闘勇戦を感謝し、冥福を祈る」と日記に書いている。
人を驚かすほどの積極性を発揮し、本人は満足だったらしいが、「あれほどの犠牲に価した作戦か」と批判も受けた。
しかも両総長の同意を得られない限り、御前会議を開く途はありません。
しかし軍部は反発し、鈴木首相に宣言を無視し、戦争貫徹に邁進するという正式なコメントを要求した。
第41歩兵師団師団長ホレース・フラー少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで海軍に対して恥をかくと考えたマッカーサーはクルーガーを通じてフラーを急かした。
ポツダム宣言受諾に対する連合国の回答が届いたのは12日朝でしたが、要点が不明確で、閣議や戦争指導会議は紛糾しました。 陸軍工兵隊により50トン爆弾に耐えられるよう作られた。
これは万死に値する。
陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。
政戦両略一致が何よりも必要なあの時期、これほど機宜に適した人事はないと、われわれ一同は心から喜んだものだ」 阿南と梅津とは大分県の同郷人であり、同じ青山の歩兵第一連隊の出身で若い時から親しく、梅津の陸軍次官の時に阿南は兵務局長と人事局長を勤め、また梅津の関東軍総司令官時代には、阿南は第二方面軍司令官としてその毫下にあった。 でも、阿南陸相が、自決されなかったら、軍部は事態を抑えられなかったと思います。
14その後8月14日に再び御前会議が開かれ、再び御聖断の形でポツダム宣言受諾の最終決定がなされた。
大石は法を犯している時点で褒められるべきではなく『道は法を越えず』でならなければならぬ」と部下に諭して聞かせたことがあった。
しかし「勝ち目がないから降伏しましょう」では陸軍が収まらず、内乱でも起こせばそれこそ国を破滅させてしまう…阿南はそれを防ぐべく命をかけていたのです。 そこで政務と軍令を統括する御前会議がその役割を果たしたのである。 日本政府はスターリンがポツダム会談に参加していたことは情報として承知していたが、当時は日ソ中立条約が有効であり、政府はソ連の対日参戦はないと考えていた。
13その方が日本にとって有利な条件で和平が結べると信じるのです」と答えている。
しかし、中国軍の撤退は「退却攻勢」作戦で、長沙では30万人の中国軍が待ち構えていたが、それに対して第11軍は急遽の作戦開始で3個師団の連携も取れておらず、兵站も不十分であった。