同日叙正二位。
本家も含めて相互に養子のやり取りをしながら、他家から養子を迎えずに現代まで頼房の血統が続いています。
法名本理院殿照誉円覚徹心大姉〕。
平岩主計頭弓削親吉養子。
寛永3年9月15日(1626年11月3日)逝去。
家宣には 家継という実子ができ、七代目はすんなり決まるのですが、また家継は若くして亡くなり、ここで三代目将軍家光以来の直系が絶えてしまいます。 童名武田万千代丸。
4従四位下〔西園寺秘本〕。
また、家康にはこの家系図に掲載されている5人の娘以外にも、自らの異父弟にあたる松平康元や定勝、そして家臣の娘を 自分の養女にして多くの大名に嫁がせました。
ところが綱吉の実子も早逝してしまい、今度は 甲府徳川家から 家宣を養子に迎え、六代目当主としました。
万治2年2月5日(1659年3月27日)卒。
同じ「系図」でも、その描かれ方、 見方を少し変えるだけで 色んな発見、今まで考えてみなかった疑問などが 湧いてきます。
順清院殿宗満。
母於国之方(本庄氏)。
延享3年6月17日(1746年8月3日)卒〔徳川幕府家譜作 3月17日〕。