自宅から藤尾小学校まで子供が安全に通えるか通学路や通学区の調査、親御さんなら入学式、卒業式、授業参観、運動会、音楽会などのイベントやPTAの行事で学校に行く際の道順探し、選挙(投票)会場の下調べ、また住み替えに利用する際には大津市茶戸町10-1周辺の環境や状況の把握など色々と便利な地図です。
校舎の正面入口付近は雑木が茂って,その様子はわかりにくいものだったが,夏の草木の茂みの中では埋もれてしまいそうだ。
10-8 八幡神社の次は,いよいよ藤尾小学校跡の探索だ。 私の眼では規模が大きい学校跡,武部さんの眼にはどのように映っただろう。 〒520-0066 滋賀県大津市茶戸町10-1 TEL:077-522-2730 FAX:077-522-3512 mail:fujio@otsu. 後で小田商店のおばあさんに尋ねたところ,「昔はこの場所に中学校(藤尾中学校,昭和35年閉校)の校舎があった」と教えていただいた。
18資料館見学やお話から様々なことを学ぶことができました。
出発日(2月8日(土))には積もったらしい浦和の雪は,ほとんど残っていなかった。
再開されなかった休校は閉校と同一に扱っています。
18昭和の匂いに包まれたお店で,おばあさんからうかがえた藤尾の話は探索のウォーミングアップには最適だった。
また, 「廃校廃村」とは,「学校跡を有する廃村・高度過疎集落」を略した呼称です。
本殿まで車道が敷設され往時の参道は廃れてしまったが、現在もきれいに管理されている。 窓口の中の部屋には,金庫まで残されていた。 ・広島県で最も歴史が古い廃村の学校は,新市町の藤尾小学校で,明治11年開校,昭和53年閉校,開校期間は100年です。
13「もしかすると,郵便局跡の建物が残っているかも」と思いながら先を進むと,紅色の壁がいかにも郵便局という建物が視界に入った。
児童の肖像権を保護するため、あらかじめ顔写真や氏名等を加工しております。
( )書きは休校を経た閉校年です。 「旧藤尾村役場や学校があった」という記述が気になり調べると,芦品郡藤尾村は昭和34年7月に大部分が新市町に,一部が三和町に編入となった行政村で,堂前はその中心部にある集落ということがわかった。 子どもたちは,少し緊張した様子でしたが,教えてもらったことを思い出しながら,前後左右を注意深く確認しながら自転車走行していました。
・最大規模の廃校廃村は新市町(旧藤尾村)藤尾堂前です。
待ち合わせは「藤尾小学校付近で午後1時頃」と,おおざっぱなものだった。
【9月30日】 トップページ、学校だより、 各学年だよりを更新しました。
堺の実家から,新大阪に出て,さくらに乗って福山駅に到着したのは午前11時1分。
そのうちに武部さんのクルマがお店に到着して,期せずして待ち合わせ成立した。 【参考:学級編制の弾力的運用】 学級編制の標準は、1学級あたりの人数の上限を示したものであり、小・中学校においては40人 小1は35人 が国の標準となっています。
17事前にDVDで安全な乗り方について学習し,この日はいよいよ実際に自転車に乗っての試験となりました。
ガレキの中にガラスが入った窓枠が見つかった藤尾村役場跡 10-11 探訪の最後には,村役場跡を訪ねた。
梶屋まででも十分雪道であり,武部さんのクルマがスタッドレスなのは幸いだった。 藤尾・堂前に着いたことを示す堂前荒神社 小屋と壊れた車庫が構えていた. 藤尾小学校は,へき地等級1級,児童数130名(S. 校庭の左隅にはプレハブ風の建物があり,様子をみると藤尾地区の公民館のようだったが,ずいぶん傷んでいた。 10-4 小田さんから「小学校は,火事で燃えてしもうてのう」というお話があって,不審火があったのかと心配になったが,それは昭和20年代のことで,そのときの建て直しで今も残る校舎が建てられたようだった。
18郵便局跡からは,車道を挟んで反対側,小山の上にある八幡神社へと足を運んだ。
椅子には「新市町有線放送電話番号簿」の本があったり,壁には「郵便貯金,簡易保険をご利用の方々へ」のいう案内や「昭和49年6月20日」という日付,郵政省貯金局長名が入った「賞状」の額があったりで,その空間は時が止まったようだった。
荒れた校舎内部を眺めているうちに,窓から外の光が入るような構図の画像を撮りたくなった。
武部さんと廃村探索をご一緒するのは,群馬県小串以来,7年7か月ぶり。
滋賀県においては、上記の学年について、特別な学級編制を実施しています。