当時は、京都や大阪方面は上方と呼ばれていました。 益体も無い 「益体もない」は、 役に立たないことを意味します。 安永5年(1776)の流行は城木屋お駒という妖婦をモデルにした浄瑠璃が当時はやっていたので、「お駒風」と名づけられました。
12それがない状態という事で「くだらない」と表現が生まれたのではないかと考えられています。
私はクレジットカードをよく利用しますので「カードな人」と言われます。
商売の傍ら情報収集に励む商人も多かったし、大名も他国の話を進んで聞きました。
では、江戸時代には日本人の身長はいったいどれほどだったのでしょうか? 火消しの仕事は火事を消すことではく破壊活動だった? 江戸時代の家屋はほとんど木造です。
この発音をするので、関東の者ははなはだ有名である 前に紹介した近藤勇の多摩の言葉「どうすべい」は、東国の方言に含まれるものであった。 中世に流行した仏教芸術のような高尚なものはありませんし、古今和歌集などに代表されるような和歌文化や枕草子や源氏物語などのような文芸文化においても、江戸時代の作品は大衆的なものが多く見受けられます。
19一方の山の手言葉は、いわゆる御屋敷言葉で、やわらかく上品とされる。
いやしい 「いやしい」は、 卑劣なことや品位に欠けること、そして 洗練されていないことをあらわしています。
ただ、江戸の町人たちの多くは長屋住まいですので、各戸にひとつトイレがあるというほどのぜいたくは許されません。 果実は、種と一緒にそういう糖分を蓄えておく倉庫なので、お陽さまがよく当たってる葉っぱの枝になってる実程、沢山の糖分が貯る理屈です。
15さて、あなたの言う「忍者」とはだれのことですか? その忍者とは誰を指すのだろうか。
当然ながら「三権分立」という考え方もなく、司法も立法も行政も武士がすべて取り仕切っていました。
なぜなのだろうか。 また「三河なまりは天下一番」(『芭蕉追善之俳諧』)といった言葉もあることから、家康の江戸入りから江戸時代初めにかけて、江戸城内で三河弁が主に話されていたことは間違いないだろう。 医者は幕府や藩によってさまざまな特典が与えられていた! 江戸時代においても医者は現代と同じように尊敬される職業で、幕府や藩によってさまざまな特典も与えられていました。
8下級武士や町人たちの食事は意外に質素だったようです 江戸時代の食事も、現代と同様、家庭によってその内容は大きく異っていたことでしょう。
ことばづかいは出身地のことばであるべきです。
三河岡崎の徳川家康像 多摩の近藤勇と江戸下町の勝海舟の言葉遣い 「どうすべえ」と「べらぼうめ」 新選組局長近藤勇が、副長の土方歳三とふたりっきりの場所では、 「トシよ」 と呼んだ、という。
画像左の立派な武者は鎌倉武士の鎮西八郎こと源為朝。