伝右衛門へ向けた最後の手紙を紙面に掲載 出典: 1921年10月23日朝日新聞 この手紙に対し、伊藤伝右衛門は4日後の10月27日、今度は大阪毎日新聞に返答文を掲載しました。 宮崎蕗苳(聞き書き:宮嶋玲子)『白蓮〜娘が語る母燁子〜』「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」発行、• 親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀」たる家から妻を娶るのは前代未聞のことで、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になった。
21885年、東京に生まれる。
その後、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まる。
・林真理子・・宮崎蕗苳編 『流転の歌人 柳原白蓮 紡がれた短歌とその生涯』(、2014年8月)• 主席、総理と対面。 ただ、NHK連続テレビ小説「」では、伝右衛門モデルの役(嘉納伝助)は男気のある人物として描かれ、創作の中での扱いにも変化が見られる。 (大正10年)10月、。
20明治18年10月15日生まれ。
手紙は9月に燁子の元に届けられるが、滔天は12月に死去して再会は叶わなかった。
(昭和5年)小説『 青春譜』刊• 22日、朝刊社会面に「 『筑紫の女王』伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ませす 愛人宮崎法学士と新生活?」の見出しで失踪の第一報が伝えられる。
10(大正12年)9月、。
内容は「近衛公の依頼を受けて南京へ行こうとしたのは誤りであった」という曹長の作文で、龍介は署名だけして拇印は押さなかった。
「右も海 左も海の 色蒼く 沖の小島に 想ひは ふかし」 (昭和12年)7月、で緊迫するとの和平工作の特使として、龍介が首相の依頼でへ派遣されるが失敗、で拘束されて東京へ送還される。 『踏絵』には、夫の愛情を感じられない暮らしから生じた悲痛なまでの孤独や、鮮烈な言葉で恋心を詠んだ火のような歌が数多く詠まれています。
11年の半分、家を空けていたときもあるという。
龍介の上海行きはによって電報が傍受されており、これを知った強硬派が憲兵を動かして龍介を拘束したのである。
その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こす。 北小路家系図 こちらは北小路家の家系図となります。
4日本の歌人。
蔣君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。
福岡支局時代は自宅が伊藤家天神別邸のすぐ側であり、妻共々燁子と交流があり、取り巻きの男達の話や夫婦間の悩みなど、燁子から様々に相談を受ける立場にあった。 実に明治大正昭和を生き抜いた。 この頃から、白蓮の号を用いる。
13義光は燁子の柳原家からの離籍を願い出るが、宮内省は反対し認められなかった。
伊藤家で孤立を深める燁子は、京都にいる伝右衛門の古くからの妾である野口さとに信頼を寄せ、その妹のおゆうを小間使いとして福岡幸袋に呼び寄せた。
82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。
再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれたが、生きがいを感じられずに、花子に心情を吐露する手紙を書いている。