また金沢の北枝 ほくし といふもの、かりそめに見送 みおく りて、このところまでしたひ来たる。
その夜、目盲 めくら 法師 ほうし の琵琶 びわ をならして奥 おく)じょうるりといふものをかたる。
道元禅師 どうげんぜんじ の御寺 みてら なり。 当寺 とうじ 三十二世 さんじゅうにせい の昔 むかし 、真壁 まかべ の平四郎 へいしろう 出家 しゅっけ して入唐 にっとう 、帰朝 きちょう の後 のち 開山 かいざん す。 その夜、月ことに晴(は)れたり。
(注3)青春18きっぷというのは、春・夏・冬のお休みシーズンに発売される、全国のJRの普通列車に乗り放題できる切符です。
岩に巌 いわお を重(かさ)ねて山とし、松栢 しょうはく 年旧 としふり 土石 どせき 老 おい て苔 こけ 滑 なめらか に、岩上 がんじょう の院々 いんいん 扉 とびら を閉 とじ てものの音きこえず。
寺を干満珠寺 かんまんじゅじ といふ。
元禄15年(1702年)刊。
途中、「閑さや」の石碑を見つけて初めて、ここがあの芭蕉の句の舞台であることを知ったのだった。
その昔 かみ むつのかみにて下 くだ りし人、この木を伐 きり て、名取川 なとりがわ の橋杭 はしぐい にせられたることなどあればにや、「松 まつ はこのたび跡 あと もなし」とは詠 よみ たり。 大山 たいざん をのぼつて日すでに暮 くれ ければ、封人 ほうじん の家 いえ を見かけて舎 やどり を求 もと む。
4立石寺の風景でもなかった。
「は」行を「わ」行に変えて読むタイプのものと,「au」などの連母音を変換させるタイプがあることを説明する。
分量も、原稿用紙9枚くらいになっちゃってます。 独 ひとり は小姫 こひめ にて、名をかさねといふ。 (つるが) 漸 ようよう 白根 しらね が嶽 だけ かくれて、比那 ひな が嵩 だけ あらはる。
12と、一句ひねってみると、うまくおさまります。
芭蕉が旅から戻ったのは1689年の9月。
涼 すず しさや ほの三か月(みかづき)の (はぐろさん) 雲の峯 みね 幾 いく つ崩(くず)れて 月の山 語 かた られぬ 湯殿 ゆどの にぬらす 袂 たもと かな 湯殿山 ゆどのさん 銭 ぜに ふむ道の 泪 なみだ かな 曽良 そら (つるおか・さかた) 羽黒 はぐろ を立ちて、鶴 つる が岡の城下 じょうか 、長山氏重行 ながやまうじじゅうこう といふもののふの家にむかへられて、誹諧 はいかい 一巻 ひとまき あり。
12痩骨 そうこつ の肩(かた)にかかれるもの、まずくるしむ。
雲居禅師 うんごぜんじ の別室 べっしつ の跡 あと 、坐禅石 ざぜんせき などあり。
かつ、杉風 さんぷう ・濁子 じょくし が発句 ほっく あり。 『俳聖』とされる松尾芭蕉の経歴・身分については様々な説がありますが、『おくのほそ道』の旅程の速度や滞在先での宿泊日数から、幕府の隠密活動を行う伊賀(三重県)の忍者だったのではないかという仮説が知られています。
15都 みやこ にも折々 おりおり かよひて、さすがに旅 たび の情 なさけ をも知 しり たれば、日ごろとどめて、長途 ちょうど のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
七宝 しっぽう 散 ちり うせて、珠 たま の扉 とびら 風 かぜ にやぶれ、金 こがね の柱 はしら 霜雪 そうせつ に朽 くち て、すでに頽廃 たいはい 空虚 くうきょ の叢 くさむら と成 なる べきを、四面 しめん 新 あらた に囲 かこみ て、甍 いらか を覆 おおい て雨風 ふうう をしのぐ。
与一 よいち 扇 おうぎ の的 まと を射 い し時、「べっしては我国氏神 わがくにのうじがみ 正八 しょうはち まん」とちかひしもこの神社 じんじゃ にてはべると聞けば、感應 かんのう 殊 ことに しきりに覚 おぼ えらる。 夏草や 兵どもが 夢の跡 江戸を出発しておよそ1ヵ月半。 (注4)岩波文庫版で約290ページですが、「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」も含まれているので、「おくのほそ道」だけだと70ページ弱しかありません。
2石の毒気 どくけ いまだほろびず。
神功后宮 じんぐうこうぐう の御墓 みはか といふ。
さてはこのうちにこそと門 かど を扣 たたけ ば、侘 わび しげなる女の出(い)でて、「いづくよりわたりたまふ道心 どうしん の御坊 ごぼう にや。
千住(現在の東京都足立区)という宿場で舟から下りると、前途三千里の壮大な旅の思いで胸がいっぱいになり、夢・幻のようなこの世の儚さを思って、離別の涙を仲間と共に流し合った。