家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。 「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6• 1988年「」:• この窮状の中まずは片方を収めるべく、氏康はの斡旋により、義元との和睦を模索。 が、徹底した北条方の籠城で小田原城は落ちず。
20なお、彼の脱ぎ癖は七男・にも遺伝したが、嫡子(次男)の( バカ)と娘の()には似なかった。
また上杉が甲越和与を解消した後も北条・上杉両氏による同盟条件の不調整・不徹底のため、北条・上杉両軍の足並みは乱れることが多かった。
北条氏は興国寺城、葛山城、など東駿河を奪取した。
新たに当主になったのはであり、義元はこれまでの外交方針を一変しての娘を正室に迎え、北条氏に対抗する構えを見せました。
関東管領の威厳を取り戻すべく北条氏康を討伐するため、1560年出陣し約8000人の兵士を連れて小田原城を包囲しました。
) 以下15人 3300貫• 著 岸正尚現代訳『小田原北条記 上』〈教育社新書 原本現代訳 23〉、1980年。 また、武田氏・今川氏と三国同盟を結んだり、時には上杉氏と同盟を結ぶなど、時と場合に応じて巧みな外交戦略を展開しました。 そして古河公方となった義氏は下総国葛西城に入り、ここを御座所と定めるのです。
なお、氏康はその勢いで上総国の里見氏の拠点である佐貫城を攻めていますが、その隙に扇谷上杉氏の旧臣である太田資正に岩付城を攻略されています。
殆どの文書に虎の印判を使用し行政の効率を高めた。
著者 ["みかめ ゆきよみ", "西股 総生"] 出版日 2016-12-17 北条家の人々はみんな個性派揃い。 父は駿河国守護・今川氏親であったとされ、 今川義元は兄にあたります。
14武田氏は武蔵国に攻め入りさらに南下、10月には小田原城を包囲します。
享年57。
の特色である領内の検地を徹底して行ない、永禄2年(1559年)2月、氏康は大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人を奉行に任命し、家臣らの諸役賦課の状態を調査し、それをが集成して『』を作成した。 連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。 。
9例を挙げればきりがありません。
1568年 武田信玄が三国同盟を無視して今川領へ侵攻。
氏康はこれに反発して武田家とは対立関係となり、逆に上杉家とは停戦に踏み切った。 さらに謙信の目は越中国に向けられていた。 これらにより、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。
1で義元亡き後の今川氏が衰退していく中で、逆に勢力を拡大していった織田や徳川。
天文十年(1541)に父・氏綱が亡くなり、氏康は二十七歳でその跡を継ぎ北条氏3代目当主の座に就くこととなる。